トロッコ 問題。 岩国の小中学校が保護者に謝罪…「トロッコ問題」にみんなの反応は

ついに思考実験「トロッコ問題」に決着。2歳児が出した衝撃の答えとは…

トロッコ 問題

コントロール不能になったトロッコ(路面電車)が線路を暴走している。 このまま暴走すると、前方にいる線路上の5人の作業員を轢(ひ)き殺してしまう。 この5人は、谷間にいるため、そこから逃げることができない。 一方、その5人の手前には分岐があり、路面電車の進行方向を変えることができる。 ところが、この別の線路の先には作業員が1人いて、そちらへ進行方向を変えれば、その1人を確実に轢き殺してしまう。 この路面電車の運転手は、どちらの選択肢を選ぶべきか? この問題は、私がもうずいぶん昔に担当した「倫理学」の授業で取り上げたことがある。 そのとき、学生たちに質問したら、〝犠牲者の数は1人でも少ないほうがいいから、5人を助けるために電車の進行方向を変え、1人が犠牲になるほうを選ぶべきだ〟と答えた学生が圧倒的に多かった。 ところが、その同じ学生たちに、今度はちょっと設定を変えて、〝暴走する路面電車の進行方向を変える分岐装置の前にあなたがいて、その操作をあなた自身ができるとしたら、あなたはやはり電車の進行方向を変えるか?〟と質問したところ、〝やはりそうする〟と答えた学生の数は、たしか3分の2くらいに減った。 前者の質問で〝進行方向を変えるべき〟と答えたのに、後者の質問でそうは答えなかった学生は、何もしなければ自分が当事者にならなくてもすむのに、わざわざ当事者になる選択をすることを嫌がったようだ。 同じ問題でも、当事者であるかどうかによって、あるいは置かれた状況の違いによって、選択の基準や評価が変わってくるということだろう。 なお、後者の質問の設定は、アメリカの哲学者ジュディス・ジャーヴィス・トムソンが提起したものである(1985)。 この「トロッコ問題」は、他にもさまざまなバリエーションが考えられ、数多く議論されてきた。 マイケル・サンデル教授を有名にしたNHKの「」という番組の冒頭で紹介され、より広く知られるようになった。 しかし、この問題は、あまりに現実離れしている。 非現実的な設定であるため、考えることをたんに楽しむがための思考ゲームのように扱われそうだ。 そのため、〝まじめに考える意味はあるのか?〟と批判された。 問題提起したフットの意図は何だったのか? フットがこの思考実験を公表したのは、「中絶の問題と二重結果論」(1967)という論文においてであった。 カトリックでは人工妊娠中絶が禁じられているが、もしも妊婦が子宮を摘出しなければいけない病気の場合、摘出は許されるのだろうか? 子宮を摘出すれば、妊婦の命は助かるが、胎児は死ぬ。 これは、中絶と同じように〝悪い行為〟なのであろうか? 「トロッコ問題」は、こうした問題を考えるための格好の〝練習台〟なのである。 ちなみに、「トロッコ問題」について詳しく知りたいという方は、『』を読むとよいであろう。 5人を助けるために1人を〝殺した〟女性を裁判にかけ、判決を下すというドラマ仕立てになっていて、読みやすい。

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トロッコ問題:究極の選択?(知的な小話31)

トロッコ 問題

有名な「思考実験」には、「」や「」がありますが、もう一つ有名な「トロッコ問題」という究極の選択を迫る思考実験があるのをご存じでしょうか? 2019年に山口県岩国市の小学校と中学校でこの「トロッコ問題」を授業で取り上げたところ、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との抗議があり、学校側が謝罪したという報道がありましたので、お聞きになった方も多いと思います。 今回はこの「トロッコ問題」という思考実験をわかりやすくご紹介したいと思います。 1.「トロッコ問題」とは 「トロッコ問題」とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で、功利主義と義務論の対立を扱った思考実験で、倫理学上の問題・課題です。 この「トロッコ問題」は、イギリスの哲学者フィリッパ・フット(1920年~2010年)が1967年に提起したもので具体的には次のような問題です。 なおこれは思考実験なので、大声を出して助けるなど「線路を切り替える以外の手段」を取ることはできないものとします。 <Aのケース> 線路を猛スピードでブレーキの故障したトロッコが走っているとします。 このままでは、線路の前方で作業している5人の作業員が轢き殺されてしまいます。 あなたは線路の分岐器のすぐそばにおり、トロッコの進路を切り替えれば5人を助けることができます。 しかし、切り替えた進路の先には別の1人の作業員がいて、その1人は5人の代わりに死んでしまうでしょう。 少しでも犠牲者を少なくしたいという常識的な判断でしょう。 ではもう一つのBのケースはどうでしょうか? <Bのケース> あなたは橋の上にいて、またもや暴走したトロッコが走っています。 トロッコは橋の下を通過しようとしており、例のごとく橋を通過した先には5人の作業員がいます。 あなたの横には太った男が立っており、その男を突き落としてトロッコにぶつければ、トロッコは止まり5人の作業員は救われます。 AのケースとBのケースで多くの人の結論に違いが出たのはなぜでしょうか? それは5人を救うために必要なアクションの大きさ・重さの違いによるものです。 人間が行うべき行為(義務)には、人を傷つけないことのような、人として最低限守らなければならない「消極的義務」と、人の命を救うことのような、プラスアルファで行えたら良い「積極的義務」があります。 一般に「消極的義務」を果たすことは「積極的義務」を果たすことよりも優先されます。 ちなみに、この問題に真正面から答えていない「解答例」としては、「線路の分岐器のレバーを真ん中にすればトロッコが脱線して全員が助かる」や「何もせずに現場から立ち去る(当事者でなく無関係な人になる)」というのもあるようです。 2.「カルネアデスの舟板」(カルネアデスの板) 「ある人が生きるためには別の人の死が伴うが、それは許されるのか?」という問いは、古くから存在します。 古代ギリシャの哲学者カルネアデス(B. 214年~B. 129年)は、次のような問題を提起しました。 これが「カルネアデスの舟板」(カルネアデスの板)と呼ばれる思考実験です。 難破した舟の壊れた舟板にしがみついた人が、別の人がしがみつこうとしたのを突き飛ばした。 なぜならその人がしがみついていた舟板はふたりがしがみつけば沈んでしまう程度のものだったからだ。 彼は生還後、罪には問われなかったが、果たしてそれは正しかったのだろうか? この問題は、今日の刑法理論によれば、自分の生命を救うためにやむを得ず他人の生命を犠牲にすることが許されるかという刑法第37条(*)の「緊急避難」の限界を論じる際にしばしば引用されます。 (*)<刑法第37条> 1.自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。 ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。 2.前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。 「違法阻却事由」とするか、「違法ではあるが、期待可能性がないものとして責任阻却事由」とするかの対立はありますが、いずれの場合も「不可罰」とする点では同じです。 山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。 (中略) 授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。 しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。 両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で 数人の児童が不安を訴えた。 これは、学校現場の「事なかれ主義」「」と「」現状を象徴しているようです。 教師が正しいと思って行った授業について、学校側は堂々と目的や意義を説明するとともに、大半の生徒・児童は深く考えることを学んだはずだと主張すべきところ、少数の抗議に対して腰砕けになって「謝罪」するのは、正しい対応とは言えないと私は思います。 岩国市の教師・学校の対応は、「トロッコ問題」に即して言えば、線路の分岐器のレバーを「5人の作業員」(大勢の児童・生徒)の方に向けたままにすることによって、「大勢の児童・生徒に対して、人間社会における倫理的判断の難しさと社会正義の複雑な構造を学ぶ機会を提供すること」を犠牲にして、「1人の作業員」(数人の不安を感じた児童)の「(数人の児童の)不安やストレス」を救済する結果となりました。 4.「トロッコ問題」は「自動運転」ではどうなるのか? 現在、がどんどんレベルアップしており、「完全自動運転」も夢ではなくなってきました。 しかし、「自動運転」では「トロッコ問題」のような究極の選択を迫られた時、AIはどういう判断をするのでしょうか? 「自動運転車」同士の場合もあれば、一方だけが「自動運転車」の場合もあると思います。 また「自動運転車」同士でも、そのレベルが異なっていたり、他社のAIの場合どうなるのでしょうか? 自動車の場合は「レール」がありませんので、「トロッコ問題」の基本形とは異なりますが、「究極の危険回避」の共通のルール・基準を作り設計することが必要ではないかと思います。 5.薩摩の「反実仮想(はんじつかそう)」「詮議(せんぎ)」の習慣 明治維新の立役者を輩出した薩摩藩には、「反実仮想」の習慣があったという話を聞いたことがあります。 これは「もし、こうなったらどうするか?」ということをあらかじめ考えておく習慣のことです。 これも「思考実験」の一つと言えます。 そのため、薩摩の人々は、これから起きうる事態を事前に想定し、対処のすべを用意することに長けていたということです。 薩摩の人々の判断力の正体は、高い反実仮想力であったといってよさそうです。 これを鍛えたのは、薩摩の郷中(ごうちゅう)教育の「詮議」です。 薩摩では、詮議と称して子供にいろいろな仮定の質問を投げかけて教育したそうです。 「殿様に急用で呼ばれた。 早馬でも間に合わない時はどうするか?」「道を歩いていて脇の塀の上から唾を吐きかけられたら、どうするか?」など、仮定の質問を子供に問い、考えさせる訓練が繰り返されていたそうです。 この訓練によって、「 想定外が想定内になる」のです。 今の日本にとても大切なことではないかと思います。

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AI時代の到来で「トロッコ問題」が再燃! その「ワケ」と「解法」(平野 晋,岡嶋 裕史)

トロッコ 問題

「トロッコ問題」 Trolley Problem に対する反応の文化差の原因を検討した新論文が出版されました。 トロッコ問題とは、「5人の人の命を助けるために別の1人の人の命を犠牲にする行為は道徳的に正しいことか」が問われる著名な道徳ジレンマ課題です。 過去に行われた国際比較研究では、アジア人と欧米人の多くがこの行為を道徳的に正しいと判断する一方で、アジア人は欧米人と比べて「自分はその行為をしない」と答える割合が多いことが見いだされていました。 ではなぜアジア人は、「正しい」と判断する行為を「しない」傾向が強いのでしょうか。 この問題に対して私たちは、アジア人と欧米人が暮らす社会の特徴と、その中で重視される評判情報(他社に対する評価の情報)の種類の違いに着目しました。 インターネットで募集した日米の成人を対象とした調査の結果、私たちの仮説から予想される通り、日本人はアメリカ人よりも自分の住む社会の関係流動性が低い(=対人関係が自由に選びにくい)と考えており、当該行為をして5人の命を救っても周囲から好意的な評判が寄せられるとは思っておらず、そのことが当該行為の選択の阻害につながっている、ことがわかりました。 私たちを取り巻く社会の特徴が道徳ジレンマ課題における意思決定に影響を与えることを示した初めての論文です。 山本翔子・結城雅樹 2019. トロッコ問題への反応の文化差はどこから来るのか?関係流動性と評判期待の役割に関する国際比較研究. 社会心理学研究, 35 2 , 61-71. doi:10. 1733.

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