マルクス ガブリエル。 マルクス・ガブリエル おすすめランキング (18作品)

コロナ危機 精神の毒にワクチンを

マルクス ガブリエル

西洋知のバトル? NHKは意図してかどうかわかりませんが、西洋思想史の二大潮流を受け継ぐ若手思想家をフィーチャーしていることになります。 人類史を大きく動かした実在論と経験論の現代的バトルといえなくもないからです。 科学主義と新実在論 西洋思想にはプラトンとアリストテレスの対立に淵源する二大潮流があります。 ごく簡単に言えば、幸か不幸か人間は現実(今生)を超えた何らかの存在を認識する動物です。 それを神と呼ぼうがイデアと呼ぼうが同じことで、プラトンは現実界を超えた永遠不滅の実在(イデア)を信じたのですが、弟子のアリストテレスはこれを拒み、永遠不滅の実在など人間には経験しようがない。 人間は経験可能な世界に思考を限定すべきだと考えました。 前者は実在論(realism)、後者は経験論(empiricisim)としていまに受け継がれています。 トマス・アクィナスによる調停 古代キリスト教の神学者たちは、エジプトのアレクサンドリアの新プラトン派の神秘思想などを通じて深くプラトンの影響を強く受け続けたのですが、中世になってトマス・アクィナスなる神学者が現れ、キリスト教神学にアリストテレス系の思考を持ち込みました。 アクィナスは「本質と存在を区別しなければならない」としました。 神は究極の存在であり、その存在に先立って本質が存在するはずがない(プラトンの否定)。 神は唯一無二の純粋存在である。 これを疑ってはならないと言って、実在論と経験論の折り合いをつけたのです。 その後の経過ははしょりますが、とにかく島国イギリスでは経験論が優勢となり、実在論優勢な大陸側と袂を分かったのです。 ここ数百年世界の覇権をとり、経済界を牛耳って英語をリンガフランカ化させた英米はアリストテレス系の唯名論、経験論の系譜を受け継いでいるわけです。 英米と事実上同盟関係にあるイスラエル出身のハラリは、英米的な科学主義(データ主義)の代表者と見なすことができます。 それに対して実在論の流れを受け継ぐドイツ出身のマルクス・ガブリエルは新実在論(=アンチ科学主義)を提唱して売り出し中の哲学者です。 両者の違いについてはガブリエル自身が明確にコメントをしていますのでご紹介しましょう。 ハラリと私とを関連付けて質問されたのは初めてのことですが、とても鋭い指摘だと思います。 ハラリは言ってみれば、自然主義、科学主義の司祭のような存在でしょう。 テクノロジーによって人類が消滅し超人が誕生するという彼の本は、聖書のテクノバージョンといえるかもしれません。 ハラリのように、自然科学だけを真実と捉え、それ以外の想像的な事象を虚構と見なす科学主義は、民主主義の基盤を損なうことにつながります。 というのも、科学主義は、人権や自由、平等といった民主主義を支える価値の体系を信じないニヒリズムに陥ってしまうからです。 ガブリエルの物言いはつねに慎重なのですが、ヘブライズム(唯名論的な科学主義)が嫌いな点だけは本音でしょう。 彼はAIを「知性」と呼ぶことにも批判的で、シンギュラリティの議論もバカバカしいと一笑に付しています。 片やイスラエル、片やドイツ・・・思考の型がいかに風土(トポス)に左右されるかの見本のような二人なのです。 「世界は存在しない」の意味 ガブリエルによれば、社会的動物である人間がお互いのトポスの違い(トライバリズム)を乗り越えていくためには、特定のスタティックな世界観(いわゆるデータ主義や科学主義)を押しつけるのではなく、別々の世界観間における「価値の共有」しかないと言います。 ポスト・ヒトラー時代のドイツ思想家だけにガブリエルの哲学は「お行儀がよく、ものわかりがいい」のが特徴です。 個人的にはハラリの醒めた視線の方が好みです(ハラリが単なる科学主義者のニヒリストとはブログ主には思えません)が、せっかくなので同じ記事から、ガブリエルのコメントを引いておきましょう。 私たちは今、これからの100年のために、分かれ道の前でどちらに進むかを決めなければなりません。 一方の道は、世界規模のサイバー独裁や全人類の滅亡に続きます。 これがまさにハラリが示したものです。 そしてもう一方には、普遍的なヒューマニズムを追求していく道があります。 こちらは、あらゆる人間存在の中の同一性を認識し、それを人類のこれからの発展のための原動力にしていく道です。 後者に進むのであれば、私たちは、さまざまな人間存在のあり方を会議のテーブルに持ち寄り、グローバルな格差をなくしていくためのシステムを共につくらなくてはなりません。 それができて、人類滅亡というファンタジーは消え去っていくのです。 英語の母胎である経験論の世界とは必ずしも折り合わないのがフランスやドイツの思想潮流なのです。 このせめぎあい(切磋琢磨)が西洋世界を豊かにも複雑にも引き裂きもしてきたわけです。 そしてこのことは日本にも無関係ではありません。 英米系の影響下にずっと置かれていますが、明治維新のとき日本人が意識的に選んだのはむしろ大陸系の思想体系でした。 日本の内部でも実在論と経験論がくんずほぐれつ、こんがらがっているのです。 年末年始の時間に余裕のあるときですから、そんな切り口でNHKの番組をご覧になるのも一興かと思います。 当サイトのハラリ関連記事 ロングラン人気記事.

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マルクス・ガブリエル「私たちは今、シミュレーションを生きている」

マルクス ガブリエル

現代思想の若きスター、マルクス・ガブリエル。 「ポスト・トゥルース」の時代に、「あらゆる物事を包摂するような単一の現実は存在しない」「私たちは現実をそのまま知ることができる」というテーゼを組み合わせた「新しい実在論」に基づき、刺激的な言論活動を展開中だ。 日本の読者向けに、その思考のエッセンスを具体的な社会問題と結びつけつつ語り下ろした本書はPHP新書「世界の知性」シリーズの第一弾。 「著者がなぜこんなに注目されるのか。 私なりの解釈では、ポストモダンの、全てが相対化した世界の中で、普遍的な道徳的価値観が『ある』とはっきり打ち出したところが新しいのかなと思います。 『新しい』というよりも、『(過去に)回帰している』と言う方が的確かもしれませんが」(担当編集者の大岩央さん) 例えばガブリエルは、痛みに対する人間の行動は世界共通であると述べる。 「サムライ」のように痛みを感じないふりをする人もいるが、それはあとから学んだ「文化」によって、生物学的な基盤から来る普遍的な行動が覆い隠されているのだと。 つまり「新しい実在論」の論理自体は難解なのだが、肯定するものは直観的でシンプル。 「真実」を求める人々を力づけるのだ。 「哲学や思想に興味がある学生の方から、ビジネス書の読者まで、幅広く手にとられています」(大岩さん).

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哲学者マルクス・ガブリエルが一刀両断「シリコンバレーの魔術師たちは刑務所行きだ」

マルクス ガブリエル

1980年生まれのドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは『世界はなぜ存在しないのか』(2013年/邦訳2018年)が世界的なベストセラーになったことで、一躍スターとなった。 大きくふたつのポイントを挙げておこう。 <1>ガブリエルはもともと、構築主義を批判する立場から「新しい実在論」を掲げたことで名をあげた。 構築主義とはごく単純化して言えば、現実なるものは存在せず、たださまざまな解釈や表象を現実と取り違えさせる社会的な作用(知、メディア、歴史……)があるだけだ、という考え方であり、かれこれ半世紀近く大きな影響力をもった。 現実そのものは実在せず、ただ任意のパースペクティヴからなされる解釈の連鎖しかないのだから、あとは現実になりすましている言語について考えればよいというわけだ。 ガブリエルはこの潮流の有力な担い手として、複数の「意味の場」の客観的な実在性を強調した。 だが、話はそれで終わらない。 というのも、本書では構築主義とは大きく異なる批判対象が新たに定められるからだ。 それは自然主義である。 ガブリエルによれば、自然主義とは、心を物理的なメカニズムに還元しようとする選択を指している。 つまり、脳科学や神経科学を突き詰めていけば、いずれ心は隅々まで解明されるという立場を指す。 しかし、彼の考えでは、こうした「自然主義的世界観」はすでに行き詰まっている。 ガブリエルは哲学者のデイヴィッド・チャーマーズを批判的に継承しながら、心なり意識なり精神といったものは、脳のメカニズムには決して還元できないと見なす。 といって、脳の基盤なしに心がどこかから奇跡的に湧いてくるという神秘主義にも与しない。 要するに、脳がなければ心も生まれないが、だからといって脳の反応を完璧に記述すれば心が解明されるわけでもない。 なぜなら、脳から心に到るとき、質的なジャンプが起こっているからである。 ガブリエルはそれを「自転車とサイクリング」の関係になぞらえる。 自転車=脳はサイクリング=心にとって必要不可欠だが、自転車があるだけではサイクリングには十分ではない。 自転車からサイクリングに到るには、質的なジャンプが要る。 このジャンプを無視して自転車についてどれだけ解析しても、サイクリングはわからない……。 こうして、ガブリエルは心をニューロン(脳)の反応に還元しようとする自然主義を、人間の精神への無理解のあらわれとして、徹底して批判しようとするのである。 <2>その延長線上で、ガブリエルは二つの次元を並置する。 一つは自然種、もう一つは精神である。 例えば、ガブリエルの考えでは、人間は動物の一種(自然種)であり、その限りで動物と同じく科学や医学の対象となるが、その次元だけに還元されることはない。 なぜなら、人間にはもう一つの別の次元、つまり「われわれという身体が姿を見せる次元、人間という意味の場の次元」(181頁)に連なる「精神」(Geist)があるからだ。 この精神の次元において、人間は人間以外のものと区別される。 つまり、人間は自然種でありながら、それとは別の次元へとジャンプすることができる。 ここでもやはり、人間であるには動物的身体=自転車が必要だが、それだけでは精神=サイクリングにはならないという論法が貫かれている。 さらに、ガブリエルは「心的なものの存在論」(166頁)にも言及する。 つまり、作家の精神の生み出した架空の登場人物(例えばマクベス)についても、実在性があると見なすのである。 あるいは心のなかに浮かんだ虚妄も、たとえ明らかに誤っていたとしても、それが現実を変え得ることをガブリエルは強調している。 「ボソンについての自分の理解が間違っているからといって、ボソンが変わるわけではない。 だが、虚妄は自分自身を変えてしまう。 しかも多くの場合、まるで別人のように変えてしまうのだ」(61頁)。 自然種ならぬ精神(虚構/虚妄)が現実を変える例は、身の回りからいくらでも見つけられるだろう。 例えば、いま世界じゅうで話題のコロナウイルスはその格好の例である。 ウィリアム・バロウズの「言語ウイルス説」を地でいくように、今や世界はコロナウイルスに加えて、まさにウイルスのように宿主=メディアをハイジャックして増殖するウイルス絡みの流言飛語に悩まされている。 我々はウイルスを模倣するようにウイルスについて「熱っぽく」語り、その語りに他者を「感染」させ続けている。

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