人間 て いい な 歌詞。 人間臭さがかっこいい!映画「銀魂2」主題歌を徹底解剖!

日本昔話のED曲「にんげんっていいな」考察: とある理想主義者雑記

人間 て いい な 歌詞

どうも、おしりを出してくれる女性には一等賞をあげたいジョンです 「あれは子熊がルールを勘違いしている歌らしい……」 十数年前、こんな話がラジオから聞こえてきました。 山口あかりさんの作詞で、アニメ「まんが日本昔ばなし」のエンディングテーマとしても有名な歌です。 そういや私も、子供の頃は不思議に思いながら聴いていましたよ。 初っ端から くまの子みていた かくれんぼ おしりを出した子 一等賞 ですからね。 どういうことやねん でもこれが「ルールを勘違いしていた」とするなら、何となく分かる気がします。 そう考えると微笑ましい光景ですよね~。 ……とまあ、そんな事を最近ふと思い出しまして。 せっかくなんで、もう少し歌詞について考えてみようかと思います。 子熊の勘違い説 実は先ほどの話って、諸説ある内の一つだと言われているんですよ。 後で出てきますが、他には「個性の尊重」みたいな解釈もあったり……。 そりゃあ、ルールを知っていたら変てこな間違いに思うかもしれませんけどね。 でも…… 動物ですから。 それを初めて見たのなら、どう捉えてしまっても無理はないでしょう。 ……というか 寧ろ私は「子熊が勘違いをするから、この歌は成立する」と思うんですよね~。 ちょっと歌詞を見てください。 まぁ「にんげん」と言っているし、内容も人間を客観的に見ている感じなんで、普通に考えたら動物でしょう。 ならば唯一登場している子熊だと考えるのが自然です。 でも正直な話、私はこの考えに違和感がありました。 だって…… サビの歌詞には「誰の視点か?」が明確に示されていませんからね。 誰かが客観的に見ていることは分かっても、誰の主観で見ているかまでは分からない。 そんな曖昧な状況で子熊だと決定づけるのは「内容が動物の発言っぽい」という一点のみ。 これが何か気持ち悪かったんです。 もっとハッキリと示されてなければ腑に落ちないというか……。 変な話、これを「子供の視点」として考えられなくもないですから。 自分たちの事を指して「にんげんっていいな」と思ったのかもしれない。 家に居る親に対して「子ども(自分)の帰りを待ってるだろな」と思ったのかもしれない。 友達が帰るから「ぼくも帰ろ」と思ったのかもしれない。 でも、そうなってくると「何の歌やねん?」って話ですよ。 子供が外で遊び、夕方になって家に帰る。 ハードボイルドか ま、べつにそういう歌があっても悪かないですけど、あくまでこれは童謡ですからね。 やはり「動物が人間を客観的に見ている」という方がしっくりきます。 一つのストーリー 動物が人間の子供を客観的に見ている。 サビ以降の描写は、これで間違いないでしょう。 そして、それは唯一登場している子熊だろうと見当は付きます。 でもサビ以降の歌詞には「誰の視点か?」が明確に示されていません。 だからイマイチ内容の筋道がしっくりこない。 これが「子供を見ている子熊の視点」を描いています。 ……さて ここで一度、私の解釈と合わせた歌詞を見てください。 くまの子みていた かくれんぼ おしりを出した子 一等賞 子熊が人間の子供たちの様子を見ている。 「どうやら、お尻を出したあの子が一等賞らしい……」 夕焼けこやけで またあした またあした 日が暮れて、子供たちが帰って行く姿を見ている子熊。 くまの子みていた かくれんぼ これだけじゃ「子供の草野球を見ている散歩中のオジサン」が如く、偶然その場に居合わせただけとしか思えなかったんで。 なんなら自然の中で遊んでいる様子を描くために、わざわざ森の動物を登場させただけやと思っていました。 だから殊更、サビの歌詞に違和感があったんですよね~。 二番に戸惑う 今回「にんげんっていいな」を考察するにあたって、改めて歌詞を調べたんですが……。 この歌って…… 二番があったんですね~。 私は『まんが日本昔ばなし』のエンディングテーマでしか聴いたことがなかったんで、全く知りませんでした。 どうやらアニメで流れていたのは一番+二番のサビ(大サビ)だったようです。 ……で 初めて二番の歌詞を見て、正直、少し戸惑いました。 ちょっと見てください。 もぐらがみていた 運動会 びりっ子元気だ 一等賞 夕焼けこやけで またあした またあした いいないいな にんげんっていいな みんなでなかよく ポチャポチャおふろ あったかいふとんで 眠るんだろな ぼくも帰ろ お家へ帰ろ でんでんでんぐりがえって バイバイバイ 今度はモグラが運動会を見ています。 でも運動会って、明らかに順位を競っていますからね~。 びりっ子=足が遅い子 元気だ一等賞=元気なことは良い事だ つまりは「たとえ足が遅くても、元気なら良いんだ」みたいな。 そして、その考え方を一番にも当てはめて…… おしりを出した子=簡単に見つかるドジな子 だから「どんくさくても良いんだ」みたいな。 更に、これらの解釈から…… 「たとえ人より劣っていたとしても、子供が元気でいてくれたらそれでいい」 「君はそのままでも素晴らしいんだ」 そんなメッセージが込められている歌だという結論に至るんだとか。 素敵やん 心温まるやん ……ま、私は違うと思うんですけどね。 メッセージよりもストーリー性 確かに、子供へ向けたメッセージとしては尤もらしい内容です。 「子供の個性を尊重する」なんてのは、子育て論や教育論に於いて必要でしょう。 先ほどから言っていますが、この歌は「動物が人間の子供を客観的に見ている」という内容です。 サビの歌詞が誰かの視点で描かれていて、唯一それに当てはまるのは最初に登場する動物だけ。 だから冒頭で「子供を見ている動物の視点」を描く必要があります。 それなのに…… 「たとえ足が遅くても、元気ならそれでいいんだ」 誰やねん? これは明らかに子供より目上やから言えるセリフで、しかも子供を見守る立場の視点です。 でも子熊は文字通り子供やし、モグラも恐らくは子供なんで彼らの視点じゃありません。 つまり、この解釈ではサビの「誰の視点か?」を明確に示せていない。 だから私は違うんじゃないかって思うんです。 まぁ他にも違和感はありますけどね……。 そりゃあ勘違い説のように想像を膨らませるパターンなら、幾らでも理由は考えられますよ。 ただ、そもそもの話…… 二番の解釈が歌詞を直接繋げた形ですからね。 「びりっ子(でも)元気だ(から)一等賞」てな感じで。 でも一番の歌詞には、二番のような「元気だ」という言葉がありません。 「おしりを出した子(でも?)(だから?)一等賞」 いくらなんでも、これで「どんくさくてもいいんだ」というのはチョット……ねえ。 どうも二番の「それでもいいんだ」的な解釈ありきでこじつけているような……。 そりゃあ私は、ぶっ飛んだ発想やトンデモな理屈が好きですけどね。 でもさすがにパターンや法則を無視して成立させるってのは、何か違うような気がします。 あと、これは完全に個人的な感覚なんですが…… 歌の意味が「たった一行の歌詞」で成り立つってのも変かと。 短い童謡なら分かりますけどね。 でもAメロBメロがあって、サビもあって、更に二番に分かれていて、最後には大サビまである。 そこまで長い歌なのに「歌い出しの一行だけで意味が成立する」ってのは、歌詞を考えるのが好きな私としては少し寂しいような……。 …… ……あ! そういえば私が考える二番の解釈を忘れていましたね。 モグラは最下位の子を見て一等賞だと勘違いできるのか? モグラの勘違い説 正直なところ、かくれんぼと違って「最下位で走る子供」を一等賞だと勘違いするのは厳しいところです。 ただ最初の方でも言いましたが、これは動物ですからね。 自分たちと関わることのない人間の運動会。 それを初めて見たとすれば、多少は無茶な理屈でも通ります。 だから私はこう考えました。 「一番大きな拍手と声援を貰っているから、あの子が一等賞かな?」ってな感じで。 運動会ってのは面白いもんで、ドンケツを走っている子には多くの声援が送られます。 特に幼稚園や保育園なら、下手すりゃ1位の子より応援されているかもしれません。 更にゴールを迎えたら「よく頑張った」と大きな拍手が送られることでしょう。 だからモグラは、その様子を見て勘違いしたわけです。 まぁ我ながらトンデモな理屈ですが、これでも確信はありますよ。 でも運動会としているのは、そこに勘違いを生む要素があるからなんでしょう。 そう考えると、やはり拍手や声援がカギだと思うんですよね~。 モグラは大きな声援と拍手が送られている子を一等賞だと勘違いした。 二番の解釈は、これで決まりでしょう。 ……ところで 勘違い説には否定的な見解もあるんですよね~。 「人間について理解するほど知能が高いなら、簡単なルールを間違えるはずがない」みたいな。 確かにサビの歌詞を見れば、動物は人間について理解しているようにも思えます。 おやつやご飯を用意して親が待っていることや、お風呂に入って布団で寝ることを思い浮かべていますからね。 でも…… それに近いものは動物の日常にもあるわけで。 子供のためにエサを獲ってくる親。 水浴びや温泉に入る習性。 快適な巣穴や寝床を作る作業。 こういうのって人間と動物では形式が違うだけで、わりと基本的なことなんじゃないかと。 逆に言えば、ご飯や風呂、布団で寝ることを分かっている人間の2~3歳児でも、鬼ごっこのルールまでは理解するのが難しかったりします。 だから動物が人間について多少は理解をしていたとしても、それだけで「勘違いするはずがない」とは言い切れないでしょう。 まぁ正直なところ…… べつに私は動物が勘違いしていなくてもいいんですよ。 「これは動物の視点だ」ということが明確に示されて、その後のストーリーに繋がっていれば、冒頭の解釈は何でも構いません。 何気ない日常の幸せ この歌は「子熊やモグラが人間の様子を見て勘違いしていた」というストーリーだった。 何かこれで話が終わりそうな気もするんですが……。 サビの歌詞についても色々と考えられそうなんで、もう少しお付き合いください。 ……で この「にんげんっていいな」というサビの歌詞なんですが…… 子供の頃は正直ピンときませんでした。 一番 いいないいな にんげんっていいな おいしいおやつに ほかほかごはん 子どもの帰りを 待ってるだろな 二番 いいないいな にんげんっていいな みんなでなかよく ポチャポチャおふろ あったかいふとんで 眠るんだろな 動物が「いいな」と思い浮かべているのは、わりと何気ない日常の一コマです。 ていうか、子供のいる家庭には割と当たり前の光景かもしれません。 だから私もアニメを観ていた当時は「言うほどのもんか?」なんて思っていました。 でもこれって…… 本当は幸せな事なんですよね~。 親が自分の帰りを待っていたり、家族で仲良くお風呂に入ったり。 親の愛情に包まれ、そして家族と一緒に過ごす日々。 子供にとって、これほど幸せなことはありません。 だから子熊やモグラは、その光景を思い浮かべて「いいな」と思ったんでしょうね。 ……ん? いやいやいや この幸せって…… 人間も動物も大して変わりませんよね? 先ほど言いましたが、サビの歌詞で描かれている光景は動物の日常にも近いものがあります。 ならば動物にも親兄弟がいて、そこに愛情があると考えるのが自然です。 じゃあ、何を以ってして「にんげんっていいな」と思ったのか? 実はこれ…… そんなに深く考える問題じゃないかもしれません。 子熊やモグラは、人間の子供が遊んでいる様子を見ていました。 そして夕方になり、子供が帰っていく姿を見ながら色々と思い浮かべます。 動物の子供が人間の子供を見ている。 つまりこれは…… よその家を羨ましがっているだけなんですよ。 え? 発想が斜め過ぎました? ないものねだりで気付くこと 子供の頃は、誰でも他人の家庭を羨ましく思ったりするもんです。 家でクッキーを焼いてくれる美人の母親 守ってあげたくなるような可愛い妹 カッコ良くて頼りになる兄 もちろん家族だけじゃなく、その家の生活スタイルに憧れることもあるでしょう。 違う環境、違う境遇で生きていると、多少は隣の芝が青く見えたりしますからね。 子熊やモグラにとっては、それが人間だったという話。 かくれんぼや運動会のルールは、ずっと見ていてもよく分からない。 でも彼らの日常が幸せに思えるし、それが自分には羨ましく感じる。 だから「にんげん(=あの子たち)っていいな」と思ったわけです。 確かに「よその家を羨ましがっている」なんて言うと、妙に生々しい感じがして童謡の世界っぽくないかもしれません。 でも「動物が人間を羨ましがっている」という図式は、余りにも立場が一方的過ぎますからね。 人間賛歌やあるまいし。 それなら、ないものねだりで「(動物の)子供がよその(人間の)子供を羨ましがる」という方が可愛らしくて私は好きです。 ちなみに最後の歌詞なんですが……。 ぼくも帰ろ お家へ帰ろ でんでんでんぐりがえって バイバイバイ 一見すると、単なる話の締めくくりにも思えます。 「あの子たちも帰ったし、日が暮れているから自分も帰ろうか」みたいな。 でもこれまでの話から考えていくと、わざわざここで「お家へ帰ろ」と言っている点が気になりました。 「にんげんっていいな」と思いながらも、何だかんだで自分たちの幸せも分かっている。 私はそんな気がします。 結局「にんげんっていいな」は何の歌だったのか? 「動物の子供が人間の子供を見て、ちょっぴり羨ましく感じた」 ただ、それだけの物語。 これが私の結論です。 でも動物の視点で「にんげんっていいな」と考えることで、色々と気付けたこともありましたね。 ……ん? もしかして、そういう歌だったのかも……。 それではまた、別の話でお会いしましょう.

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長渕剛 人間 歌詞

人間 て いい な 歌詞

アレンジは 関口晶大さん ラムシーニさん Naoki Itaiさんが努める。 ずっと真夜中でいいのに。 『ヒューマノイド』 MV描かせていただきました。 何かしら感じていただければ嬉しいです。 登場人物 登場人物は主にこの二人。 MVを見て頂くと分かるのですが 左側の人間が 主人公。 右側の人間らしき者は ヒューマノイド。 MV中の• 操作するも上手くいかない姿• この心情は歌詞とも関係性が強いです。 これらを踏まえた上で 本題の歌詞に迫っていきます。 スポンサーリンク 歌詞 レイラサイダ サブアッタッシャル マラハバ マッサラーマ マダ レイラサイダ サブアッタッシャル マラハバ マッサラーマ マダ 立ちはだかるボスをまだ 起こさずに 崩れてく 摩天楼を眺め 砂ぼこりは今日も 君の頬 汚してる 躊躇いもなく あゝ そばにいたい訳を 記すなら 都合のいい 名前を付けるが 属することないよ 前提が いないから 瞼も使わず 青いタネを 潰しては口に運んでく 夕暮れまで 永遠などないと 知らしめるから きっと水でさえ この熱でさえ 感じていないのなら 使い切って声に出そう 通えない記憶を全部 冷凍したって形に残るんだ こんな気持ちだけ 名前があるだけ 手を握るたび プログラムだってこと? 誰にも当てはまることない 基準なんていらないよ 浮かんでいるだけの あの泡に 名前がある この世界には 再現困難の 表情が 意味を持つ 言葉も要らぬほど 生まれて死ぬまでを 人間は 一度しか 辿れないのなら 何度も壊しては 組み立てて 奇跡だとか 確かめていたいだけ 桃味の 炭酸水に2人潜り込んで 少し泣いても わかんない具合に 晦ましあえた きっと震えさえ この重ささえ 届かないのなら ボタン押して消去しよう 揃わない記憶を全部 解答したって不安を増すんだ そんなメモリだけ 名前があるだけ 目を逸らしたら 錆びてしまうけれど 遮る無駄な思考回路も 傷になって触れたくて 言えるかな 言い切れること 1つもいらないよ 偽物さえも その見解も 誰が決めることでもないよ 勝ち負けが白黒が人間が 人間じゃないかなんてもう 正しさは無くて 儚い傷も抱きしめよう 目を瞑ろう 今日を終わらせるために きっと水でさえ この熱でさえ 感じていないのなら 使い切って声に出そう 通えない記憶を全部 冷凍したって形に残るんだ こんな気持ちだけ 名前があるだけ 手を握るたび プログラムだってこと? 誰にも当てはまることない 基準なんていらないよ レイラサイダ サブアッタッシャル マラハバ マッサラーマ マダ レイラサイダ サブアッタッシャル マラハバ マッサラーマ マラハバ 歌詞の意味・解釈 前提として 本楽曲は、歌詞全容の解釈の結果 人間とヒューマノイドの恋 を描いた内容であると仮定し 考察を進めていきました。 恋をするためにヒューマノイドを作った といった方が正しいのかも知れません。 それでは、細かく解説していきます。 1番 レイラサイダ サブアッタッシャル マラハバ マッサラーマ マダ レイラサイダ サブアッタッシャル マラハバ マッサラーマ マダ 呪文のような言葉の羅列が続きます。 ここの呪文のような言葉は 「アラビア語」 意味を並べると• レイラ…夜(一部では最愛のとしても使われる)• サイダ…アルジェリアの都市。 マッサラーマ…さようなら• マダ…オマーンの飛地領土。 サブアッタッシャルは不明です。 意味を持つ言葉として考えるには、 一貫性がなさすぎます。 ここで、思い出すべきは登場人物の 『ヒューマノイド』 羅列された言葉達は、ヒューマノイドにプログラミングされた自動言語という仮説が生まれます。 人間には理解することができない言葉 といったところでしょうか。 また、 『レイラ』と聞くと、 別楽曲を思い出しますね。 ここは 主人公視点で ヒューマノイドを見ているのだと思います。 目の前の問題とは何でしょうか? ロボットであるために、不正プログラムなどの問題が起きているのかも知れません。 もしくは 主人公がロボットに恋をしている それ自体を問題と言っているのかも知れません。 砂ぼこりがかかっても振り払うような仕草が描かれていないのは、ヒューマノイド(ロボット)だから。 そばにいたい訳を 記すなら 都合のいい 名前を付けるが 属することないよ 前提が いないから 瞼も使わず そばにいたい訳を 記す というのは、主人公がヒューマノイドに 「恋愛プログラム」を書き込んでいる姿。 恐らくは 「恋愛」というような いわゆる一般的なプログラム名 を打ち込んだのでしょう。 都合のいい 名前を付けた とあります。 しかし、人間とロボット なんて前例がありません。 だから、属する(分類の中に入れる) ことはないと言っているのです。 瞳を閉じる暇もないくらい、 主人公は熱心にプログラム作成を行います。 青いタネを 潰しては口に運んでく 夕暮れまで 永遠などないと 知らしめるから 青いタネとはなんでしょうか? 言葉に意味を求めると 青い…未熟 タネ…人または動物の系統を伝えるもと。 「青いタネ」は、一知半解のものであり、伝統のない「ヒューマノイド」に通じているような気もしますが、純粋にヒューマノイドだけに共通する「食べ物」なのかも知れませんね。

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人間臭さがかっこいい!映画「銀魂2」主題歌を徹底解剖!

人間 て いい な 歌詞

自分にかっこつけることもなく、相手を思いやるでもなく、どちらかと言うと足の引っ張り合いをしているような歌詞が特徴的です。 足りない部分を互いに支え合って生きていこうと歌うのではなく、そんな関係はまっぴらご免だと言っています。 銀さんにも重なる歌詞 銀魂の主人公である坂田銀時(銀さん)はお金にがめつくやる気はない、死んだ魚のような目をした男です。 普段はだらしなく、すぐにパチンコでお金を使ってしまうダメ男です。 しかしいざとなるととても強く、仲間を、むしろ敵でも助けてくれることがあるほど、かっこいい一面を持っています。 傍から見ているだけではわからない、彼なりのポリシーがあるところがかっこいいのです。 「大不正解」で歌われているのも、やはり似たようなものを感じます。 互いを嫌い、腐れ縁だと言いながらも離れることができない。 腐れ縁とは言いつつ、背中合わせで逆境を乗り越えられる関係というのは、実はとても特別で大切な関係とも言えます。 文句を垂れながらも結局は離れられない。 そんな腐れ縁で結ばれているのが銀魂の世界にも重なりますね。 皮一枚を隔てた本音と建前 楽曲内で「化けの皮」の表現されているように、皮一枚剥ぎ取ればそこには本音が隠れています。 本音と建前を使い分けている人ほど、皮一枚剥ぎ取ったところに隠れている心は醜いのでしょう。 その化けの皮は簡単に剥がれてしまうほどもろく、幼稚なものです。 万事屋も新選組もその他のキャラクターたちも、銀魂に登場するキャラクターはみな、信念を持ち、それを貫く熱い魂を持っています。 普段どんなにかっこよく、クールに見えるキャラクターでも、熱さが見える瞬間があります。 人間臭さを捨てきれないところが完璧な人間からはほど遠く、だからこそ愛おしく思える部分ですね。 なぜ「大不正解」なのか 「大不正解」は完全無欠ではないという歌詞が印象的で、完璧を求めない姿勢がリアルです。 かっこをつけることなく、完全無欠でない上にありのままの姿を愛するほど強くもない。 そんな未完成な人間臭さがこの曲の特徴であり、作品ともよく合っています。 間違いだらけで、本音をむき出してかっこ悪く、図太く生きていく姿はスマートではありません。 人生に正解というものがあるならば、正当な道から外れ、泥にまみれた生き方をしている姿はまさに大不正解。 銀魂キャラクターに見る泥臭さ、人間臭さと歌の世界が見事にマッチした「銀魂」のための楽曲と言えます。 TEXT:岡野ケイ.

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